山釣り雑感

■雑感というより独り言ともつかないボヤキ■ その3 (2002/06/16)

山釣りをやるようになってからもうかなり長いが釣技のほうはいっこうに上達しない。まぁ、所詮山屋が沢歩きの余興でする釣りだから下手でいいんだ、と自己納得しているが、やはり釣りは釣れる方が釣れないよりはおもしろいのは当然のことだ。

こんな私でも、かつては1日に何十尾ものアマゴを釣ってかえっていたことがある。最初は餌釣りでやっていて、山屋の得意技を生かしてほとんど誰も入らない沢の奥までに入り、おそらくそこでひっそりと生息していたであろう魚をごっそり釣って帰っては得意がっていたのである。まぁ、こういうことをやっていては、私の嫌いなあの忌まわしき「極悪釣り師」連中とたいして変わらないということを悟って、最近はあまり沢の奥地に入ることもしなくなった。

こういう沢の奥地にいる魚はいとも簡単に釣れてしまうのである。当然沢は狭く藪だらけでチョウチン釣りになりせせこましい釣りになるので、釣趣の方はもうひとつであるが、とにかく釣れてしまうのだ。そして紀伊山地の沢はどんどん奥地に入っていって、滝を越えて更にその上の滝を超えて、沢の水がほとんど無くなった水たまりみたいなところにも魚が生息しているのにも驚いてしまった。そんなところにいる魚は、餌を放り込んでやればいとも簡単に食いついてくる。誰でも釣れる、子供でも釣れてしまうというわけだ。

こんなところにいる魚は、その谷のいわば種魚であるわけで、それを釣り上げてしまえばその谷の魚は絶滅してしまうのは時間の問題だ。こういうことがわかってからは私はこういう所に釣りで入るのを極力やめることにした。釣り方も餌釣りからテンカラに変えて、チョウチン釣りのテンカラは面白味に欠けるせいもあって、あまり奥地の狭い渓には入らなくなったという理由もある。しかし、最近のアウトドアブーム、渓流釣りブームで、山奥まで自称渓流マン連中はどんどん入ってきて、こういう山奥の種魚まで根こそぎ釣っていくので、すっかり魚がいなくなってしまった渓というのも結構最近増えてきているようなのである。

紀伊山地の渓流釣りというのは他の地方の渓流釣りとは趣がかなり違うのではないかと私は思っている。周知のように紀伊山地では岩魚というのは放流魚を除けばごく限られた一部の地域に生息しているのみでほとんど釣りの対象とはならない。主としてアマゴがその対象魚となるが、他の地方では、ヤマメ・アマゴ釣りというのは里川の釣りであって、山奥の源流域では岩魚釣りとなるのであるが、紀伊山地では源流のどこまで行ってもアマゴ釣りなのである。東北や中部・北陸地方の「源流の岩魚釣り」に対して、紀伊山地においては「源流のアマゴ釣り」となる。険谷の滝を越えて更にその上流の滝の上にもアマゴが居る。これらのアマゴは、かつて山で生活していた杣人がそのタンパク源にと上流部へ移植放流した魚の末裔なのである。皆は天然魚と思っているが、人の手によって運ばれて増えてきた魚の末裔が天然化しているのがほとんどなのだ。

紀伊山地の山奥に行けば、どこまで行っても人間臭い痕跡があることに驚くことがある。沢を何時間も遡行し、こんな所に人が来ること等ほとんど無いだろうと思われる所にも、人工的に組まれた石垣の跡や、朽ち果てた小屋掛けの跡があったり、杣道がいくつも錯綜していて驚くことは多い。山また山が延々と続く紀伊山地は、昔から山と深い関わりを持ちながら山で生活してきた人々が多く居て、魚もそれらの人々と深い関わりを持ちながら長い年月を生きながらえてきている。こうした魚の末裔達が今我々が紀伊山地の源流域で目にする魚たちなのだ。

今、Web上でも渓流釣り関係のサイトは結構あり、紀伊山地がそのテリトリーの所もかなり目にするが、これらの紀伊山地の渓流魚の特性にまで考察を巡らしたようなサイトというのはあまり見たことがない。なにかしら、アマゴより岩魚を釣る方がより渓流釣りらしい、とでも言いたげな傾向の所ばかりが多く見られるのは気のせいだろうか。元々居るはずのないところで岩魚を釣って得意がっている、外来の魚(気取った渓流マンの間ではナントカトラウトというらしい)を釣って得意がっている、あるいは放流もののノボリ尺アマゴを釣って得意がっている、自称アウトドアマン、自称渓流マンばかりだ。

今年も私にとっての山釣り(渓流釣りとは言わずあえて山釣りと言っているのは理由があるんですよ。)のシーズンが始まったが、改めてここ紀伊山地での山釣りに関していろいろと考えてしまった今日この頃である。結局何が言いたいのかようわからんけど、ボヤキというのはようわからんものなので・・・・。

(このボヤキ、いずれ気が向いたらまた続きます。)



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